三陸道~大震災が残した、料金無料&地域密着型のミニ高速道路~・・・歴史で紐解く高速道路

  • 三陸道(三陸沿岸道路)の釜石ジャンクション

    三陸道(三陸沿岸道路)の釜石ジャンクション

日本の高速道路は、その大半が有料道路で、料金水準は世界一高い。有料道路制度の先輩であるイタリアやフランスと比べても数倍の水準にあり、ドイツのような料金無料(大型トレーラーのみ有料)の国に比べると、ドライバーの負担は非常に重い。

「道路は本来無料のはず。高い料金を取ること自体がおかしい」

今もそういう意見の人がいる。有料道路制度の黎明期は、反発はもっとダイレクトだった。公益財団法人「高速道路調査会」がまとめた『高速道路五十年史』には、こんな一節がある。

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公団(日本道路公団)発足早々の昭和31年6月、私は静岡県から引き継いだばかりの伊東道路(既に無料開放となった一般有料道路)において、料金収受業務に従事した。
当時はまだ事務所もゲートも未完成で、昭和31年7月1日の午前0時から前日まで無料であった道路でカンテラの明りをたよりに料金収受を開始したため、その当時はまだ道路は無料というのが一般常識であったことと、また我々の勉強不足による説明の不手際も重なって、初めの3か月間位は通行者からコッピドク叱られた。

思い出すままに、当時の会話の一例を紹介してみる。
通行者「おめえら!なんでこんな山ん中で追剥みてえに俺らっちから金とるんだ!!」
収受員「国の法律によりまして、今日から有料の道路になったもんで……」
通行者「法律たあなんだ!なんの法律だ」
収受員「道路整備特別措置法という法律です」
通行者「バカ!!そんな法律きいたこたあねえ!!お前じゃわからん!責任者を出せ!!」
収受員「ハイ、私が責任者です。ともかくお金を頂かないとここは通せません。法律できまったんですから!」

ここで双方、暫時にらみ合い。通行者も「アタマ」にきているので、料金を投げつけて通過するようなことも度々あった」
(足立尚志・元日本道路公団福岡建設局次長/『高速道路五十年史』より引用)
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そもそもなぜ日本では、高速道路が原則有料になったのか。それを知るためには、歴史を紐解く必要がある。詳しく書くと長くなるので、要点を列挙しよう。

(1)江戸期に整備された街道は徒歩が前提で、車(大八車等)を利用しての輸送は、道が傷むため原則禁止されていた。
(2)明治になってからは、鉄道整備に力を入れ、道路整備は後回しとなった。
(3)太平洋戦争の敗戦後、日本は極端な貧乏国に転落し、しばらくはまともな公共事業すらできなかった。道路はほとんどデコボコの砂利道ばかり。一級国道の舗装率でさえ、わずか17%に過ぎなかった。
(4)乏しい税収から道路整備に回せる金額はごく限られていたため、揮発油税(ガソリン税)が道路整備の目的税とされると同時に、有料道路制度が法整備され、1956年、日本道路公団が設立された。

有料道路制度とは、まず政府保証債などの借金で道路を建設し、料金収入でそれを返済。返済が終了したら無料開放するという方法だ。こうして、ガソリン税による税収は一般道の整備に回し、高速道路は有料道路制度で建設することになったのである。

当初は路線ごとの独立採算制だったが、そのままだと、早く開通したドル箱路線(名神や東名など)が先に無料開放される一方、後発路線は料金設定が高くなるという不平等が生じる。
そのため1972年に全国プール制が導入され、すべての高速道路を一体と見なし、全路線の借金返済が終わると同時に一括して無料開放される形に改められた。

その後システムの腐敗が進んだため、2005年に道路四公団が民営化されて現在に至っているが、全国プール制による有料道路制度は形を変えて引き継がれ、現在、予定された高速道路ネットワークの約9割が完成するに至っている。

しかしそれでも、採算性が極端に悪いため、有料道路としての建設が不可能なケースがある。その場合税金を投入するしかないが、税収には限りがあるため、年度ごとに割り当て可能な建設費がどうしても小さくなる。自然、建設速度は牛歩となり、「このままではいつ完成するか見当もつかない」ということになる。その筆頭格が三陸沿岸道路(略称・三陸道)だった。

三陸沿岸は地形が極めて険しく、人口は希薄。有料の高速道路を造っても、採算を採るのはまず不可能だ。そのため、高速道路より格下の「一般国道の自動車専用道路」として、税金で細々と建設が進められ、2011年3月時点では、総延長359kmのうち、宮城県内の内陸部を中心とした約129kmが完成していただけだった。

そんな状況を一気に変えたのが、東日本大震災だ。
津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸は、海岸沿いの国道45号線をはじめ、道路が寸断され孤立した。そこでまず、救援のために東北道から三陸沿岸に向かう国道のがれき撤去等が進められた。
同年7月には早くも「復興道路」という位置付けで三陸道の具体的なルートが決定され、11月に補正予算が成立、建設が始まった。それから約10年後の2021年12月、仙台から八戸まで全線が開通したのである。

近年、高速道路は、計画決定から完成まで30年というのが目安。事業化から10年で全線開通は異例のスピードだった。

建設費は約1兆6000億円。その全額が税金でまかなわれたため、料金無料となった。1兆6000億円は巨費ではあるが、東日本大震災の復興のため、これまで合計で30兆円以上の予算が投入されたことを思えば、それほど高くはない。

  • 完成2車線で対面事故のリスクも小さい三陸道

    完成2車線で対面事故のリスクも小さい三陸道

実際に三陸道を走ると、この道路が地域の実情に合わせた、良き「ミニ高速道路」であることが実感できる。
宮城県内の一部を除き、車線数は「2」、制限速度は70~80km/h。いわゆる「暫定2車線」区間は少なく、大部分が完成形の2車線として建設されている。これは、交通量を考えれば正しい選択だ。
完成2車線は、暫定2車線と違ってガードレール製の中央分離帯が設けられており、正面衝突事故のリスクが小さい。いつ4車線になるか見通しが立たないまま、危険な暫定2車線対面通行を続けている路線よりも、かえって走りやすい。

料金無料につき料金所がないので、インターチェンジは高速道路規格よりぐっとシンプル。その分インターチェンジの密度を大幅に増やすことができた。出入口が多いので、一般道の延長線として気軽に使える。

  • 宮城手県石巻市にあるトヤケ森山から見た三陸道

    宮城県石巻市にあるトヤケ森山から見た三陸道

  • 三陸道の全線図

三陸道の全線図(引用:国土交通省東北地方整備局 復興道路復興支援道路
https://www.thr.mlit.go.jp/road/fukkouroad/shidou.html

ルートは、津波被害を避けるため、海岸より山側を通っている。車窓からはあまり海岸線が見えず、レジャードライブには物足りない面もあるが、従来の国道利用に比べると時間短縮効果は大きい。仙台から八戸まで全線利用すると約5時間10分。開通前より3時間20分短縮された。

同じ区間を東北道と八戸道を利用すると、所要時間約3時間20分。三陸道経由のほうが1時間50分余計にかかるが、三陸道は大部分が料金無料というメリットがあり、東北道の迂回路としても機能する。「復興支援道路」に指定された釜石道・宮古盛岡道も全線開通しており、三陸沿岸へのアクセスは、震災以前とは比べ物にならないほど改善された。

  • 岩手県陸前高田市の奇跡の一本松と奥に見えるのは巨大な防潮堤

    岩手県陸前高田市の奇跡の一本松と奥に見えるのは巨大な防潮堤

災害大国・日本では、常に大災害が繰り返されている。現在の能登半島は、かつての三陸沿岸に近い惨状だ。災害の際、孤立を防ぐためには、なによりも道路が必要で、道路がなくては救援も復興も不可能だ。

三陸沿岸の主要都市の海岸線には、巨大な防潮堤が完成し、海がまったく見えなくなった。その景観を目の当たりにすると、「これで本当によかったのか」という思いも頭をよぎるが、三陸道に関しては、地域に合ったいい道路ができたのではないかと考えている。

  • 三陸道の道路看板

(文、写真:清水草一)

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