23年連れ添う人生初の愛車が纏う、唯一無二の「質感」。1996年式ホンダ プレリュード Si VTEC スポーツステージ バージョンRII(BB4型)


「モディファイか、純正を維持か?」という議論はしばしば白熱しがちだが、本質はそこではないと思う。カーライフは文字どおり「オーナーの生き方」ではないだろうか。どんなクルマでも乗り手の哲学が染み込めば、人生の一部になり得る。

ここに、車齢約30年のスポーツカーを「走らせながら守る」という選択をしたオーナーがいる。

オーナーの愛車は、延命ではなくしっかりと今を生きている。誰が見ても現役バリバリのマシンだ。今回は、そんな想いを愛車に託して走り続けるオーナーを取材することができた。

「このクルマは、1996年式のホンダ プレリュード Si VTEC スポーツステージ バージョンRII(BB4型/以下、プレリュード)です。このクルマは21歳のときに購入して23年目を迎えました。私も今年で44歳になります。1オーナー車、走行距離2万6000kmで購入したので、自分がオーナーになってからは約18万km走ったことになります」

1978年にデビューした初代プレリュードは、実用性以外の楽しみ方を提案すべく生まれた2ドアクーペだった。1970年代は、大衆車が成熟し始めた時代だ。“スペシャリティカー”という言葉が市民権を得ようとしていたとき、プレリュードはシリーズ2代目・3代目ともスペシャリティカーの象徴的存在となった。

なお、プレリュードは2025年秋に新型デビューが予定されており、シリーズ6代目が24年ぶりに復活することになっている。

オーナーが所有する「BB4型」は、1991年に登場したシリーズ4代目にあたる。「音速の貴公子」こと、あのアイルトン・セナがCMキャラクターに起用され話題となった。ホンダがNSXやビートなどの尖ったモデルを矢継ぎ早に投入していた当時、プレリュードは運転自体を楽しめるクーペに進化した。ボディサイズは全長×全幅×全高:4440mm×1765mm×1290mm、駆動方式はFF。搭載される排気量2156ccの水冷直列4気筒DOHCエンジンは2タイプを設定。「F22B(Si)」は最高出力160馬力を発揮。VTECを搭載する「H22A型(Si VTEC)」は200馬力を誇った。

4代目プレリュードには「ハイパー4WS(四輪操舵システム)」が搭載されている。シリーズ3代目で世界初の量産4WSを実現し、4代目はその進化版となっている。車速やハンドルの切り方に応じて後輪の舵角をリアルタイムに制御することで、低速では取り回しがしやすく、高速ではより高い安定性を実現した。

オーナーの個体は、モデル最終期に発売された「Si VTEC スポーツステージ バージョンRII」と呼ばれる、専用の内装を備えた特別仕様車だ。

まずは、オーナーはどのようにクルマを好きになっていったのか、原体験について伺った。

「物心ついたときにはトミカで遊んでいましたね。その後もチョロQやミッドレーサー、ラジコンで遊びながら育ちました。小学生の頃はハイラックスとか、ランクル、パジェロといったRV車が好みでしたね。

私の父もそれなりにクルマが好きで、ホンダ党でした。第1期のF1を観て初代シビックに乗ったそうです。物心付いた頃には、初代アコードが家にあったことを覚えています」

クルマが身近にある環境で、自然と“好き”が育っていったようだ。そしてそのまま大人になったような印象を受ける。

「子どもの頃から今までそのまま続いてきている感じなんですよ。トミカとかラジコンとか、ミニ四駆とか。とにかくクルマで遊ぶことが日常にあって、カスタムするのが前提だったんです。ミニカーをオールペンしたり、ミニ四駆も軽量化を狙って穴を開けたり。ラジコンもノーマルで走らせるなんてことはほとんどなかったですから(笑)」

そして、クルマ好き少年をさらに「沼」へと引きずり込んだのが、1997年に発売されたあの伝説的ゲームだ。

「グランツーリスモで遊ぶためにプレイステーションを買ったようなものです。夏休みになると1日12時間遊んでいたこともあるくらい、完全にハマっていました。いま思えば、グランツーリスモのおかげで自動車メーカーやクルマのメカニズムを自然と学ぶことができましたね」

「グランツーリスモ」のすごさは、ゲームの枠を超えて「クルマと生きる感覚」をシミュレーションできる点にあった。クルマを手に入れてモディファイを施し、賞金を稼いで維持費をまかないながらレースに挑む。このゲームのおかげでクルマの楽しさを知った人も数多い。

だが、何よりもクルマに「愛着」を持つ心を育む要素が大きかった点がこのゲームの美点だ。勝っても負けても、一緒に走ってきた“ウチのクルマ”が愛おしい。そんな感覚が、リアルカーライフにリンクしていく教科書のようなゲームだった。

こうして醸成されたオーナーのクルマへの想いは、やがて現実の1台を引き寄せる。愛車プレリュードとの出会いを伺った。

「高校を卒業して自動車系の専門学校に進学したんですが、そこで同級生が4代目前期型のプレリュードに乗っていました。しかもVTECのMT。存在自体は、小4の頃にプラモデルのカタログで知ってはいたんですが、実際に乗せてもらったときにVTECを体感して虜になりました。

もともと人と被らないクルマを選びたがる性格で、当時候補にしていたのは初代インテグラタイプR(DB8型)とアコード トルネオSiR-T。ただ、中古の価格がまだ高かったんですよね。その点、プレリュードは価格がこなれていました。当時は2ドアクーペが、市場的には冬の時代だったような気がします。

ちょうどその頃、アルバイトしていたガソリンスタンドで、先輩がプレリュードの逸話をいろいろと教えてくれました。『首都高でパトカーに使われていた』とか『N1耐久でBMWのM3とガチンコ勝負していた』といった話を聞いて、しだいに気になる存在になっていきました」

本気で手に入れたいと思うようになってから、本格的な「愛車探し」が始まった。とはいえ、当時は中古車検索サイトが発達していたわけではない。ネットに出てくる情報は限られ、信頼できる個体を見つけるには地道な努力が必要だった。

「社会人1年生になった2003年から、本格的にプレリュードを探しはじめました。当時はインターネットの黎明期で、今みたいにスマホやSNSもない時代です。主な情報源は雑誌でしたね。

当時から、最終型の特別仕様車『スポーツステージ バージョンRII』にこだわっていて、ボディは黒。でも、そこまで条件を絞ると出てこないんですよね。しかも、ショップにグレード名を伝えると『え?それ何?』といわれる状態だったので、自力で探すしかなかったんです」

ただでさえレアなグレードだが、オーナーはどのように探し当てたのだろうか。

「近隣にある2つの中古車店をずっとチェックしていました。いずれも4代目プレリュードを複数台扱っていたからです。時間との勝負で、先に買い手がついてしまったこともありました。

そうしているとたまたま、後に愛車となる個体が出てきました。ボディは黒ではなく『フロストホワイト』でしたが、追加メーターとMOMO製のステアリングが装着されており、足回りはタナベ製の車高調、ホンダツインカム製の左右出しマフラーまで交換してありました。それでいて7年落ち、走行距離はわずか2万6000km。もう迷いはなかったです」

ようやく理想の1台にたどり着き、プレリュードとの新しい日々が始まる。納車まもない頃の様子を振り返っていただいた。

「納車当日は、朝イチで電車とバスを乗り継いでショップまで行きました。到着すると『まだ仕上がってないからもうちょっと待ってくれ』って(笑)。初めて運転席に座ったときは“これ俺のクルマなんだな”って感動した記憶があります。

帰り道は、純正のカセットステレオとトランクに載ったCDチェンジャーで、持参したミスチルや中島美嘉のアルバムを流しながら下道を自走しました。渋滞にもはまったし、慣れないMTでけっこう疲れましたが、いい思い出です」

乗りはじめて10年ほどまでは、気が済むまで走らせたいという気持ちが強かったという。

「夜になるとよくドライブしていました。最初の1年で1万km6年後にはもう10万キロを超えていました。節目を迎えたのは2009年の夏です。ちょうど首都高C1の霞ヶ関付近、汐留のトンネルあたりでメーターが並んだんですよ。『ああ、ここで10万キロか…』と思ったことをはっきり覚えています」

あらためて、愛車の完成度についてはどう感じているのだろうか。

「いじるのは好きでしたけど、プレリュードに関してはもうやることがないなと。納車されてまもなくALPINE製のCD・MDデッキ。運転席にRECARO製のシートを入れて、翌年にエアロパーツを装着。ホイールも16インチから17インチへ変えた。

エクステリアは、できるだけ純正の雰囲気を崩さないようにしています。ベースとしての完成度が高いので、今はどう維持するか、どう守るかというフェーズに入っています。純正部品もできるだけストックして、消耗品は早めに交換するようにしています」

プレリュードをはじめ、1990年代の国産スポーツカーが「ネオクラシック」と呼ばれるようになった昨今。純正部品が廃番になっていることも多く、代用品や中古品に頼らざるを得ない場面も少なくない。部品の供給状況を、あえてお聞きした。

「出る部品もあるけど、出ないものが多い。特に専用設計のパーツは在庫切れも多く、汎用品ではどうにもならないこともあります。さらにホンダ特有の部品番号の違いに悩むことが多いですね。同じ構造でもステーの形状や取り回しの違いで品番が変わり、実車に合わせた選定が必要になります。純正カタログだけでは判断できない場面も多く、オーナー同士の知見や情報交換がモノをいいますね。

私の場合『これって付くんじゃないかな?』という仮説を立てて試して、結果をSNSにアップします。それを別のオーナーが検証してくれて、さらに別のオーナーが検証してくれるという…。自分たちで部品マニュアルを作っているような感覚です。

海外のオーナーからも相談の連絡があるんですよ。右ハンドル好きのアメリカのオーナーさんが、日本仕様のクルマを何台も集めて大切にしていると聞きました」

オーナーが率先して情報を発信することで、多くの4代目プレリュードオーナーが救われてきたに違いない。ちなみに、国内では現在どれくらいの個体が残存しているのだろうか。

「同じ4代目プレリュードにすれ違うことはまずないですね(笑)」

と、オーナーは笑う。それほど希少になった今だからこそ、オーナー同士のつながりは強いようだ。

「全国のオーナーでLINEグループを作っています。10年以上のお付き合いになる方もいらっしゃいますし、新規で入ってくる方もいらっしゃいますよ。オークションで部品が出品されれば『俺、これ入札するよ』と、仲間内で取り合いにならないように声をかけ合ってますね(笑)」

  • (写真提供:ご本人さま)

さらに、オーナーは部品の有無がすぐにわかるよう、手元の補修パーツをすべてリスト化して管理している。品番・状態・残量・用途を把握し、必要なときに迷わず手に取れるよう、定期的に棚卸し(!)も行っているというから驚きだ。

その一環として、過去には部品取り用の車両も所有していた時期もあったのだという。登録こそされていたが、“自走可能な予備部品の塊”として確保されていた。まるで部品商のバックヤードのような環境に、思わず唸ってしまう。しかしこれが、長く走らせていくための戦略なのだ。

その背景も納得できる。オーナーは20代の頃からサーキット走行も楽しんでおり、そのために部品の備えは不可欠だ。

  • (写真提供:ご本人さま)

「走り始めたのは、28歳のときだったと思います。お世話になっているショップで、ホンダ車のミーティングが日光サーキットで開催されると知り、参加しました。そこで体験走行に参加したのがきっかけで、筑波サーキット1000で開催されている走行会に年4~5回のペースで参加しています。ただし、走行会に参加するのはクルマにやさしい冬季限定です」

愛車の仕様を確認していくうちに、取材メモがみるみる埋まる。駆動系はミッションケースから中身まで、プレリュードの純正品やアコードの純正品を流用。フライホイールは強化品だ。冷却系も、銅2層ラジエーターにGT-R流用のオイルクーラーを装着と抜かりがない。重整備はシグマ自動車というショップに頼んでいるが、可能な限りDIYで行っているという。

これだけ手が入っていれば、サーキット前提のセッティングと思ってしまうが、当然車検にも対応できている。真夏でもエアコンはバッチリ効くそうだ。あくまで普段使いの延長線上にある仕様という、オーナーの美学が感じられる。

これだけ情熱を注いでいるのだから、当然ずっと乗り続けると思われるだろう。だが、オーナーは一度プレリュードを降りるかどうか、本気で悩んだことがあるという。

「当時の感覚だと、新車登録から15年も経てば、買い替えは当たり前という時代でした。そんなときに気になっていたのが、シビック タイプRユーロ(FN2型)でした。たまたまお世話になっていたショップのデモカーになっていたので、試乗することができたんです。

でも、違うんですよね…。言葉にするのは難しいですが、ひとことでいえば『質感』なんですよ。FN2はとても良いクルマでしたが、90年代のクルマと比べるとホンダのこだわりが薄くなったように感じたんです」

新しいクルマはどれもよくできている。しかし、欲しいかといえば違う。それが結論だった。オーナーの心には確信が芽生えた。「これから先もこのプレリュードを選び続ければいいのだ」と。

こうしてプレリュードとの生活を続けてこられたのは、家族の理解があってこそだとオーナーは話す。奥様には感謝してもしきれないという。

「妻はクルマに関してはまったく口を出してこない人で、『ああ、またやってるな』くらいの感じで見守ってくれています。知り合った頃からすでにプレリュード2台持ちの状態だったんで、彼女からしたら、むしろ『減ったね』くらいの感覚だったようです。お義父さんがかなりのクルマ好きなので、理解してくれているのでしょう。ありがたいです」

あらためて今後、このプレリュードとどのように接していくつもりなのかを伺った。

「まずは、現状維持です。クルマに関しては、不調の兆候を見逃さず、必要なときに手を入れればいい。日々のコンディションを把握しておくことが欠かせません。それは人間も同じで、健康であることが大前提です。そこが崩れると仕事もできないし、家族も守れない。まずは自分の身体を整えていくことがいちばん大事ですよね。

情報が多い時代ですが、やはり誰とつながるかは大きいです。SNSを通じて知り合った仲間から学ぶことも多いし、なかには整備の名医のような方もいます。そういう人たちとのご縁を大事にしながら支え合っていけたらと。特にプレリュードのようなマイナー車は、自分で何とかするしかない場面が多いので、この時代で良かったなと感じますね」

最後に、オーナーの娘さんが「プレリュードに乗りたい」と言ってきたらどうするかを尋ねてみた。

「…いや、譲らないですね(笑)。彼女が免許を取れるのはたぶん15年後です。その頃にはプレリュードも新車登録から40年以上が経過しているので。環境規制や法制度のハードルも高くなっているでしょうし、時代に合った好きなクルマを選んだほうが絶対に楽しいよと伝えるつもりです」

やはり、カーライフとは「生き方」といえるのだろう。健康を保ち、家族との日常を何より大切にしつつも愛車と向き合い続けるオーナーの姿は、まるで内なるダイヤモンドを磨き続けているように感じられた。

取材を終え、心地良いVTEC,サウンドを奏でながらプレリュードが走り去って行く。そのときふと、4代目プレリュードのCMのラストシーンで、アイルトン・セナは「さあ。走ろうか。Just move it!」と締めくくっている映像がよみがえった。4代目プレリュードがデビューしたとき、セナは現役バリバリのF1ドライバーだった。もう30 年以上も前のことだ。

内外装ともに、オーナー自らの手でまで手が加えられ、美しく磨き上げられたプレリュードはそんな時の流れを忘れさせてくれるほど素晴らしいコンディションだった。しかも、これで完成ではない。まだまだ先は長そうだ。

ふと思った。オーナーとプレリュードのあゆみは、もしかするとまだ“前奏曲”なのかもしれない、と。

(取材・文: 松村透<株式会社キズナノート> / 編集: vehiclenaviMAGAZINE編集部 / 撮影: 古宮こうき)

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