トヨタ 86(ハチロク) 開発ストーリー 夢の始動 2012年2月

1965年に誕生した“トヨタ・スポーツ800”から始まり、流麗なデザインと高性能を世界に知らしめた“トヨタ2000GT”、そして今なおファンを集める“AE86”。さらには、WRC等ラリーの舞台で活躍したセリカ、量産国産車初となるミッドシップの“MR2”、SUPER GTで輝かしい戦績を残した“スープラ”など、トヨタは数々のスポーツカーを送り出してきた。しかしながら日本の自動車産業が成熟して多様化する中、スポーツカーは次々に生産中止となり、トヨタのスポーツカーの歴史は2007年のMR-S生産終了とともに一時的に途絶えることになる。

86の開発は、こうしたトヨタスポーツのヘリテージを継承し、クルマ本来の楽しさをもっと多くの方に伝えたいという切実な願いから始まった。2007年1月、社内全役員が集まるトップ会議で、クルマの楽しさに正面から向き合うためには、万難を排して量販スポーツカーの復活が必須ということが確認された。ここから、夢のプロジェクトが始動したのである。

自動車業界の未来を見据えて始動したプロジェクト

開発指揮  多田 哲也 Tetsuya Tada
製品企画本部 製品企画 チーフエンジニア

歴史に残る多くのスポーツカーを輩出していたトヨタ。しかしながら90年代のミニバンブームや、2000年以降に本格化したグローバル競争が激化する中で、多人数乗車や経済合理性などを優先した車種構成へと変化し、スポーツカーは一台、また一台と姿を消していった。86開発を指揮したチーフエンジニアの多田は、当時の社内の状況を次のように振り返る。

多田「スポーツカーの企画自体は、それまでもアイデアを毎年技術部から提案していました。でも、毎年必ず却下される。理由は費用対効果みたいなところで、スポーツカーなんて箸にも棒にもかからないものって思われていたんです。」

2005年のスバルとの業務提携を受け、何らかの共同開発プロジェクトを模索しようという動きがあった。“水平対向エンジン+FRレイアウト”という86の商品企画を強力に進めた仕掛け人が、製品企画部の伊藤と、商品企画部の高田、沖野だった。

開発指揮  多田 哲也 Tetsuya Tada
製品企画本部 製品企画 チーフエンジニア
企画担当 伊藤 太 Futoshi Ito
製品企画部 中長期計画室 室長

伊藤「スバルとの提携という話が出てきて、2006年に両社の提携のシンボルを作ろうと検討を開始したんです。エントリースポーツカーやスープラの後継となるような本格的スポーツカーのアイデアもありました。最終的にスバルと共同開発をやるのなら、水平対向エンジンを使ったFRをやらないで他に何をやるんだと。一部のマニアだけでなく、普通の人にもスポーツカーを好きになって欲しい。そんなインパクトのあるクルマにするためにも、水平対向FRしかないという確信があったんです。技術部門のトップだった岡本副社長(当時)に相談すると、『面白い。検討してみろ。』という答えでした。トヨタ主体で車両企画、デザイン開発を行い、スバル主体で開発実務を行うというスバルとの提携の基本スキームをまとめたんです。このときこだわったのは“徹底的に低重心にしよう”ということでした。」

沖野「あの頃、上司の高田と議論したのは、仮に、かつてのAE86のような直4のFRを出したとして、それが世の中の人々に響くのかと。必要なのは“一級のモノ”であることなんです。乗ったら“クルマってこんなに凄いんだ”と思わせるようなものを出さなければ、クルマへの関心をなくしたお客様の気持ちを再び引きつけることはできない。そんなことを考えながら企画をまとめていったんです。」

大枠が正式決定し、いよいよ開発が本格的に始動するかに見えたものの、当初は両社のクルマづくりにおける哲学の違いから、微妙な温度差が生まれていた。それは商品のコンセプトをどう捉えるかという部分である。スバルは、世界のモータースポーツでも活躍する高性能な4WDスポーツを輩出しているメーカー。当初、86の商品コンセプトに対しては複雑な想いもあった。スバル側で開発全体を統括した増田(スバル商品企画本部 副本部長 上級プロジェクトゼネラルマネージャー)は、当時の思いを率直に語る。

増田「スバルは、水平対向の低重心や高剛性ボディにこだわりながら、ターボや4WDによる付加価値を付けてグローバルでアピールできるクルマを作ってきたんです。純粋に水平対向だけのクルマをつくれるとは思っていなかった。2リッターで300馬力を超えるクルマも作っている我々からすると、2リッターの自然吸気でスポーツカー?という思いもありました。」

スバル側でパッケージやボディ開発を担当した賚たもう(スバル技術本部 車体設計部主幹兼主査)も、さまざまなジレンマを感じていた。

賚「このクルマで投資回収できるのか、発展性が凄く大変だな、と。何かバリエーションを作ろうとしたときに苦しくなる。4WDにできるよう、こっそりスペースを稼いだレイアウトでパッケージ案を出したら、トヨタの岡本副社長(当時)に『ここにムダなスペースがある』と指摘されたこともあります。先人が作ってくれた水平対向4WDのレイアウトって言うのは、余りにも完璧で簡単には変えようがなかった。ただ、企業に技術を残すためには、伊勢神宮が二十年に一回作り直すのと同じで、基本的なアーキテクチャーを変えないと人間は育たない、そんな想いもありました。」

企画担当 伊藤 太 Futoshi Ito
製品企画部 中長期計画室 室長
プロジェクトを前進させるきっかけとなった試作車。重心高を企画目標に合わせ、既存セダンのホイールベースを短縮した手作りの車両である。

状況を打開するきっかけとなったのは、“水平対向エンジン+FRレイアウト”の可能性を探るべく製作した一台の試作車だった。既存セダンのホイールベースを短縮した車両を製作し、重心高だけを企画目標に合わせた手作りの車両。トヨタ、スバル、それぞれの試乗会で、この試作車の持つポテンシャルの高さに驚きの声が続出した。スバル側でプロジェクトを牽引していた神林(当時のスバル技術本部 副本部長)も、この試作車のポテンシャルに水平対向エンジンの新しい可能性を感じたと振り返る。

神林「実際クルマにしてみると、今まで体験したことがない次元に到達しているなと。これは、スバルの水平対向エンジンが新しい領域を切り拓く可能性があるという思いを持ちました。非常に嬉しかったし、事業性や色んな要因で、いつ駄目になるか分からないと思っていたプロジェクトが、これなら上手くいくんじゃないかと。」

一方で企画を推進してきた高田たちも、何としてでも両社の気持ちをひとつにしようと努力を重ねていた。高田の下で企画を推進していた商品企画部の沖野は、過去のスバルとトヨタの歩みを切り貼りした手作りの資料を持って会議に臨んだ。

沖野「トヨタもスバルも、昭和30年代に情熱を持った技術者たちが大衆向けの自家用車を作った。今回、その後輩となる技術者たちがやるべきは、かつてスーパーカーに憧れたクルマ少年の夢を叶えることです。トヨタとスバルのスポーツの系譜を融合させたのが“水平対向FR”なんです。そういうことを一所懸命伝えたんです。スバル側でこのプロジェクトを引っ張ってくれた神林さんにも、凄く共感していただけました。あの方がいらっしゃらなかったら、多分進んでいなかったと思います。」

それぞれの歴史と哲学を持つ2つのメーカーによる共同開発プロジェクトは、こうして本格的な開発フェイズへと移っていくことになる。

“若者のクルマ離れ”をどう食い止めるのかという自動車業界全体の未来に関わる命題については、既に幾度も議論されていた。多田は過去に、若者に向けた新しいコンセプトとして投入された“初代bB”の企画を手がけたこともある。

bBのようなクルマの投入で、一瞬は盛り上がりを見せても、しばらくすれば元に戻ってしまう。様々なイベントを仕掛けたり、店舗を変えても一向に光が見えてこない。その主因はどこにあるのか。“それは、スポーツカーというクルマ好きの王道、ここから逃げているからではないのか”と指摘したのが、当時副社長を務めていた豊田章男だった。これを受けて2007年の初頭、社内全役員が集まるトップ会議が開かれる。単に儲かる、儲からないだけではなく、自動車業界の先を見据えてスポーツカーを投入するという方針が、ここで決定されたのである。

この決定を受け、2007年3月に新たなスポーツカー開発の責任者に選ばれたのが、当時2代目ウィッシュのチーフエンジニアを担当していた多田だった。それは何の予告もなく、ある日突然のことだった。

多田「昼休みに役員室に呼ばれて、君はもうミニバンはいいから、スポーツカーをやってくれと。訳が分からなくて、でも単純に嬉しかったですね。僕ともう一人。二人だけの小さなグループができたけど、当然ベース車両なんかない。ほとんど白紙から新時代のトヨタスポーツ開発が始まったんです。」

プロジェクトを前進させるきっかけとなった試作車。重心高を企画目標に合わせ、既存セダンのホイールベースを短縮した手作りの車両である。

開発コード“86”に込められた想い

では、どんなスポーツカーをつくるのか。さまざまなアイデアを検討する中で、多田が見いだしていったのが、「かつてのAE86のように、みんなに育ててもらえるスポーツカーをつくりたい」という方向性である。

多田「色んな方の意見も聞きました。ハイブリッドに決まっているだろうと言う方もいれば、スープラの後継をつくれとか、もっと安い150万くらいのクルマがいいとか。それで思ったのは、スポーツカーなんて、人それぞれ欲しい物が違う。これはマーケティングではつくれないクルマだと。一台づつ何億円も頂いて、その人専用のクルマをつくってあげることしかできない。それならばAE86みたいなクルマをつくれば、みんなが好きなように仕上げるだろう。それしか道はないと思ったんですね。色んなトヨタスポーツカーの歴史を見ていくと、いまだにユーザーがその素材で楽しんでいるのがAE86です。あのクルマ自体は、出た時点で飛び抜けた性能があったというより、その後でユーザーが自分好みに仕上げて楽しんでくれたという面が大きい。そういうクルマをつくりたい。発売して10年、20年経ってもみんなが楽しんでくれる、そんなクルマになったら最高だ。それを最初に決めたんです。だから、トヨタの開発車両に与えられる開発コードも86が来るまでひたすら待っていたんです。」

「みんなに育ててもらえるスポーツカー」という、ソフトウェアとしてのアイデアの源泉となったAE86。一方でハードウェアとして多田が注目したのが、トヨタ初のライトウェイトスポーツ、トヨタ・スポーツ800である。

多田「唯一の水平対向FRであり、軽量・コンパクトで燃費もいい。当時としては先進的過ぎたけど、今の時代にはぴったりのクルマ。スポーツカーをつくれと言われて、最初に調べに行ったのが“ヨタハチ”なんです。関東自動車工業に保管されていた青焼きの図面を見て、なるほど水平対向エンジンというのは、こんなにいいことなんだと思ったんです。そんなことを考えていたら企画サイドからスバルとの共同開発プランの情報が入ってきた。理想が実現するチャンスだと思いました。」

企画担当 高田 敦史 Atsushi Takada
トヨタマーケティングジャパン マーケティング局 副局長

多田は、かつてのトヨタ・スポーツ800に“水平対向エンジン+FRレイアウト”パッケージの理想を見い出していた。低重心を実現できるとともに、フードを低く抑えたデザインにもつながる。自分が目指すスポーツカーにとってまさに理想的な組み合わせだと直感した。こうして86の開発は、スバルとの共同開発プロジェクトとしてスタートを切る。

多田「むちゃくちゃ尖った企画で開発を進めていたので、色んな部門と折り合わないことだらけだったんですが、高田さんが裏で何度も頭を下げてくれていたのかな。『何としてでもトヨタの夢をもう一度復活させよう!』と、役員までも積極的に後押ししてくれた。彼らが居てくれなければ、86は絶対世に出ていないと思います。」

企画担当 高田 敦史 Atsushi Takada
トヨタマーケティングジャパン マーケティング局 副局長