大嶋和也選手、今季でスーパーフォーミュラからの引退を発表! 〜スーパーフォーミュラ夏祭り 富士スピードウェイ〜

先般のスーパーフォーミュラ富士大会で、前身のフォーミュラ・ニッポンからを含め100戦を達成することとなった大嶋和也選手(docomo business ROOKIE)。100戦を終えると、その日の終わりに記者会見の場が設けられました。先月(2025年6月)のSUPER GT第3戦マレーシア大会では、150戦参戦のお祝いをしていたので、こちらもそんな長いキャリアになったのかと思っていたら、なんと引退の発表がありまして衝撃でした。

  • 日本レースプロモーション上野禎久社長から記念の花束贈呈 チームカラーになってますね

記者会見は、100戦参戦に関してでしたので、しっかりお話を聞いていたのですが、その途中で引退のお話が出てきてびっくり。慌てて途中からですが動画を撮影しました。

大粒の涙を流しながら想いを語る大嶋選手

何年か前の立川祐路監督のSUPER GT引退会見もそう言えば夏の富士での発表だったなあとか、頭がぐるぐるで落ち着いて聴き始めると、大嶋選手号泣、わたしはもらい泣きの繰り返しでした。

会見では、昨年すでに引退を決めていたこと、そして、それを1年延長したことがご本人の口から述べられ、そこで言葉に詰まるシーンが長く続きました。

  • 所属チームのオーナー兼日本自動車会議所豊田章男会長から100戦記念の盾が贈られる

思えば、今のチーム(docomo business ROOKIE))の立ち上げのドライバーとなりましたが、ここの苦労はかなりあったよう。側で見ていても、経験のないスタッフと経験のあるスタッフの入り混じるチームの新規チーム。

元々、2つのレーシングチームから派生して新しく作られたチームです。SUPER GTは、もともとのレーシングチームから来たスタッフがメインに戦っていますが、スーパーフォーミュラは逆に未経験の方々をメインにしているチーム構成ですね。もう未経験だなんて言えませんけどね。

当初は、いろいろ混乱しておりましたが、今はしっかりした体制でやっています。もちろん誰でも初めの一歩はあるわけですから、ここまでチームを作り上げる時に、ドライバーとして乗った大嶋選手の苦労はただならぬものだったと思います。

戦績が悪ければドライバーのせいにされるのは辛かった…。取材の中で述べられたたくさんのコメントの中の一つですが、そう言われてしまうのは辛いよね。周囲の目が厳しかったのかもしれません、ベテランですしね。ドライバーが要因の場合とそうではない部分も当然ありますが、そこを乗り越えるチーム力は信頼から生まれると思うんです。それしかない。100戦も戦うと。

◆大嶋和也 1987年4月30日うまれ(現在38歳)
2006 F3マカオグランプリ参戦
2007 マカオグランプリ3位(チーム・レクリス・トムス)SUPER GT GT300クラスチャンピオン
2008 マノー・モータースポーツ F3ユーロ マカオグランプリ
2009 国内復帰フォーミュラ・ニッポン PETRONAS TEAM TOM'S #37
2010 菅生優勝 PETRONAS TEAM TOM'S #37
2011 Team LeMans #7 ポールポジション(SUGO)
2012 Team LeMans #7
2015 ス―パーフォーミュラ、トムスでスポット参戦 PETRONAS TEAM TOM'S #1
2017 チーム ル・マンからフル参戦 SUNOCO TEAM LEMANS
2018 山田健二エンジニア急逝 UOMO SUNOCO TEAM LEMANS #8
2019 UOMO SUNOCO TEAM LEMANS #8
2020 ROOKIE Racing #14
2021 NTT Communications ROOKIE #14
2022 NTT Communications ROOKIE #14
2023 docomo business ROOKIE #14
2024 docomo business ROOKIE #14

ざっとF3からフォーミュラのカテゴリーだけ書き出してみました。
※全日本選手権フォーミュラ・ニッポンは、2016年より全日本スーパーフォーミュラ選手権に名称を変更

  • 2010年SUGOにて優勝

2006年は、全日本F3選手権に初参戦。以前は、F1の登竜門と言われたマカオグランプリにも参戦しました。私も行ったので覚えております。ヨーロッパにすでに行っていた育成の先輩、小林可夢偉選手(ASM)、中嶋一貴選手、平手晃平選手(マノー)も凱旋。ヨーロッパの2チームからの参戦でしたが、小林可夢偉選手が予選レースで優勝、同じく予選レースで平手選手が3位表彰台を獲得するなど、この頃はとてもマカオも戦績的にも賑やかでしたね(その後、2007、2008年と日本勢が連勝するとレギュレーション的に厳しくなりました。その後、今まで優勝はナシ…)

2008年には、大嶋選手もヨーロッパ修行に出て、マカオグランプリにはマノー・モータースポーツから参戦。チームメイトは、同じく欧州修行のHonda塚越広大選手でしたね。なかなか辛い環境で戦っている話を伺った記憶があります。

その後、SUPER GTはGT500クラスに参戦しましたが、スーパーフォーミュラはシートを失ったシーズンもありました。
スーパーフォーミュラデビューは、2009年PETRONAS TEAM TOM'S。スポンサーカラーのグリーンのヘアスタイルは、トムス舘会長のオーダーでしたね。当時は、今みたいにヘアカラーを変えると目立つ時期でした。今ですとカラーの選択肢の一つかとしか思われないと思いますけどね。いや、やっぱり派手ですかね。

中嶋一貴選手がF1から戻ってくるのと入れ替えにチーム ル・マンに移籍。ここから彼はチームル・マンの「顔」として頑張りました。

2017年には、トムスで共に全日本F3選手権でタイトルを獲った山田健二エンジニアと組みました。2人のコンビは見慣れた光景だなと思いましたが、あれから10年くらいは軽く経過していたんですね。タイムラグを感じませんでした。トムスF3で長くメーカー育成ドライバーを担当した山田エンジニアもル・マンに移籍していましたね。中嶋一貴さん、片岡龍也さんも担当されていました。

2018年には、鈴鹿サーキットのレースウィーク中に山田健二エンジニアが急逝するという衝撃のニュースが飛び込み、このニュースにみなが動揺したはずですが、最後までチームのみなさんはしっかり頑張っていました。

その後、ルーキーレーシングがチームを立ち上げ、スーパーフォーミュラに参戦することで、彼がステアリングを握ることとなります。

ルーキーレーシングは、6年目になったんですね。時の経つのは早い。立ち上げ当初から見てきておりますが、ようやく体制も安定したように見えます。

トラックエンジニアも固定。2023年に僚友の石浦宏明監督を招聘したことで、チームも少し雰囲気が変わったように思います。クルマづくりも戦績も落ち着いてきたような。

記者会見で、今年は楽しく過ごしているという主旨のお話がありましたし、ポイントを獲得できるレースもありましたが、一から立ち上げるとは、これほどまでに大変だったのかと改めて思います。見渡してみれば入賞も難しいチームも存在しますし、本当にチーム運営とは難しいものだと感じます。

今回の富士は、事前に公式テストがあったのですが、石浦監督に伺ったところ、そこからクルマを全て見直したそうです。ちょうど良いインターバルとなったようです。バトルも見られましたし、大嶋選手のモチベーションも過去イチ上がったのではないでしょうか。

レースウィーク終わりのミックスゾーンでお話を伺ったら、昨年スーパーフォーミュラを引退していたら後悔をしていたと、そう話してくれました。より今年が良いシーズンであるのを確認できました。

私は、モータースポーツを戦う上で、タイミングってあると常々思っています。特にメーカーのワークスドライバーは、メーカーの方針で環境が変わります。与えられる環境は、誰よりも素晴らしいとは思いますが、ご自身に与えられた時間の中で結果を出すのも大変。

100戦を迎えたことで、大嶋選手はこれまで起用してくれたチームオーナーに感謝していると述べました。途中シートの無い時期もありましたし、復帰も年齢的に厳しい時期だったかもしれませんが、彼を選んでくれたこと。これが息の長いドライバーになった要因ですよね。そして、大嶋選手が長きにわたり本当に頑張ったのだと思います。

SUPER GTは、まだまだ全開で行くとのことですので、立川祐路監督の200戦を目指して欲しいです。先般のSUPER GTマレーシア大会で、石浦宏明選手、日産の松田次生選手と共に、150戦を達成しているのできっと頑張ってくれるでしょう。私は見届けることができないですけど、楽しみにしております!

これをここまで書いたら、今、石浦宏明選手のSUPER GTからの活動の終了を知らせるプレスリリースが届きました…。そうかそう来たか…。

  • レース後のアフターグリッドパーティにて

話を戻して、引退という言葉は、寂しさしかないですよね。残り3大会、菅生、富士、鈴鹿、ぜひ大嶋和也選手の勇姿を観に、サーキットに来て欲しいです!よろしくお願いします!

暑い日が続きますが、私の担当するレースは、来月3戦もあります。バテそうですが、頑張るドライバー、チームのみなさんのために頑張って取材をしたいと思います!では、また!

(写真:日本レースプロモーション、トヨタ自動車、折原弘之 / テキスト:大谷幸子)