今も信奉される第2世代GT-Rの集大成 R34型日産スカイラインGT-R・・・懐かしの名車をプレイバック

  • スカイラインGT-R R34

第2世代「GT-R」の究極の姿として、今も圧倒的な人気を誇るR34型「日産スカイラインGT-R」。特にファイナルバージョンの「Nur(ニュル)」は、当時ファンの間で取り合いになったという。13年の歴史の終わりに訪れた“狂乱”を、当時を知る元オーナーが振り返る。

スカイラインGT-Rは“憧れのなかの憧れ”

「トヨタ・セリカXX」でクルマ人生を始めた私は、その次に「その時、精悍(せいかん)」こと7代目「日産スカイライン」の「GTS」に乗った。スカイラインは「フェアレディZ」やセリカと並んで、小さいころから憧れの名前だったから。初めてつくったプラモデルは“ケンメリ”の「2000GT-X」だったし、免許を取って初めて運転したクルマは叔母の持つ“ジャパン”の「2000GT」だった(免許を取る前に触っていたのが母の「ラングレー」……というのは内緒の話)。

日産プリンス店との付き合いが始まると、週末にはフェアイベントを開催するディーラーによく顔を出した。そして8代目スカイライン……特によみがえったGT-Rには大衝撃を受けた。世のクルマ好きの大多数と同じに。「BNR32」はたちまち“憧れリスト”に加わる。

それから2年後。社会人になっていた私は自動車雑誌の編集部に異動した。第2世代のスカイラインGT-Rは“扱えば本がよく売れる”キラーコンテンツだった。「BNR32」から「BCNR33」、そして「BNR34」へ。フルモデルチェンジはもちろんマイナーチェンジや特別仕様車の情報でさえ、GT-Rの文字が表紙に躍ると本が売れた時代。第2世代スカイラインGT-Rこそは、私の編集者時代の血となり肉となったのだった。

グランドツアラーとしても逸品だった「Mスペック」

当然のなりゆきで、プライベートでも第2世代をこよなく愛することに。R32にもR33にも乗った。なかでもBNR34の「Mスペック」は、ちょうどフリーランスになりたての時期に手に入れたこともあって、東奔西走の取材活動のよきパートナーとなってくれたものだ。あのころ、片道800kmまでの取材であればBNR34をメインに使っていた。東京からであれば西は広島、北は青森まで。とにかくよく走った。

R32やR33とは違ってチューンナップこそしなかった(少しはオトナになっていたのだ)し、リミッターもそのままだったけれど、グランドツアラーとしての優秀さは国産車随一だった。「シリカブレス」(シャンパンゴールド)のボディーカラーもとても気に入っていた。

そんなBNR34にもついに生産終了の時がやってくる。平成12年度排ガス規制に適合しないモデルは、2001年9月以降、生産できなくなったからだ。そして最後を記念するモデル「Nur(ニュル)」が発表されると知った筆者は、付き合いのある日産マンにお願いして1枠をなんとか確保してもらった。そのころはまだコンプライアンスもへったくれもなかったので、そういうことも許されていたのだ。

当初300台限定といわれていて、それゆえ慌ててコネを頼ったわけだったけれど、あまりにオーダーが殺到したらしくすぐさま500台に変更、さらには1000台まで増えてしまって、最初に枠を確保していた筆者などはなんとももどかしい気分になったものだ。今の異常なニュル人気を思うに、それでも“少なかった”のだけれど。ちなみに当時のパンフレットを引っ張り出してきてみたら、台数のところにシールが貼ってあった。500台となったタイミングで印刷して、後から1000台に変えたのだと思う。

もし今でも持っていれば……

もっとも、私はニュルのオーダーでひとつ、大きな間違いを犯していた。それまで乗っていたMスペックがとても気に入っていたにもかかわらず、悩んだ揚げ句に最後の記念モデルなんだからと「Mスペック ニュル」ではなく「VスペックIIニュル」をオーダーしてしまったのだ。もちろんシリカブレスではなく専用色「ミレニアムジェイド」で。なにが間違いだったのかというと、まずニュルは心臓部がメタルタービンのN1エンジンとなっていて、実用域における扱いやすさが減じていた。しかもそれを、サーキット向きともいうべきVスペックIIベースのほうで選んでしまったため、まったくもって遠乗りに適さなかったのだ。

いや、そんなことはハナから知っていた。入れ替わりに手放したMスペックは、ハンドルの材質や足まわりを変えた、R35「日産GT-R」で言うところの「Tスペック」で、とても優れたグランドツーリングカーだった。なんならシロウトにドライブさせたなら、そこがサーキットであってもVよりMのほうがタイムが出やすいことも、実際のテスト企画で証明していた(踏ん張りが利いたほうがなにかと踏みやすいのだ)。それなのに、私は日和(ひよ)ってVスペックIIの専用色という最もありがちなパターンを選んでしまった。痛恨のオーダーミスだ。

結局、ミレニアムジェイドのVスペックIIニュルは、3000kmくらいしか乗らずに手放してしまった。年間で3万km以上乗っていたMとは大違い。しかもそのオドメーターはというと、ほとんどが取材される側として駆り出されて稼いだ距離だったように思う。

わがR34ニュルは、もったいないことにその多くの時間をガレージで過ごしていた。“ケンメリGT-R”と追い金なしで交換しようと言われたこともあったけれど、古いスカイラインにはもっと乗らないだろうからと断った。今からかれこれ20年前のこと。その時、38歳。若かったのだ。いずれにしても、今も持っていれば……。二重に痛恨の思い出である。

(文=西川 淳)

MORIZO on the Road