40代のイタリアンシェフはなぜ今さら、GRヤリス RCでラリー出場を目指すのか?

  • トヨタ・GRヤリスとオーナーの冨山晶行さん

築地のイタリア料理店でオーナーシェフを務める冨山晶行さん。その背後に写るシトロエン SMとホンダ S600は、車好きだった亡き父が遺したものだ。父の死後、晶行さんがコツコツ直しながら、たまに乗っている。

だが手前に写っているトヨタ GRヤリス RCも――こちらは父が遺したものではなく、間違いなく冨山さんが自身で購入したものではあるのだが、「ある意味、亡父が晶行さんに遺したモノ」であるように、取材者には感じられた。

この記事では、そんな微妙な存在である2020年式トヨタ GRヤリス RCに焦点を当てたい――というか、GRヤリス RCというモノの形をして現れることになった、ある父子の物語についてお話ししたい。

  • トヨタ・GRヤリスの左サイドビュー

破天荒な父親だった。美しく言うのであれば「遊びも仕事も一流な人だった」ということになるだろうか。

学生時代にホンダ N360でラリーを始め、その後はホンダ 1300を駆って全日本ラリー選手権にも参戦した。

仕事のほうでは、飲食店を中心にさまざまな事業を展開した。まぁ晶行さんいわく大ハズしした事業も多かったそうだが、いずれにせよ、商売の才もあった。1980年代のいわゆるイタメシブームが始まる直前に開業したイタリア料理店は特に成功し、小学生だった晶行さんも皿洗いに駆り出されていたという。

  • 冨山晶行さんの幼少時代の写真

そんな晶行さんも成長し、そして父の影響を受けて「車好きの青年」にもなり、大学卒業後の進路を考えるタイミングになった。

あるとき父に進路の相談めいたことをすると、父は言った。「いやお前は卒業したらイタリアの料理学校に行くことに決まってるから、心配すんな」と。

「いや心配うんぬんじゃなくて、“俺の意思”はどうなるのよ!」と父に迫ると、彼はこう言ったという。

「……まぁ1年間、奉公だと思ってイタリア行ってこいよ。その1年を済ませたらさ、俺のツテでお前を○○の弟子にさせてやるから。そうしたらお前、憧れだった『モータージャーナリスト』にもなれるじゃないの? だから、とにかく1年行ってこい」

上記の「○○」の部分には、往年の超有名日本人ラリードライバーの名前が入る。晶行さんの父と「○○氏」は、慶應義塾大学の自動車クラブでともに切磋琢磨した仲だ。

「まぁ1年間だけ我慢すればいいなら……」ということで、22歳の冨山晶行さんはとりあえずイタリアへと旅立った。

しかし行ってみればイタリアという国も、本場での料理修行も新鮮かつ刺激的で、自らイタリア料理の道へのめり込んでいった。当初の予定は1年間だったが、結局は約3年間、彼の地にいることになった。

  • トヨタ・GRヤリスオーナーの冨山晶行さんのシェフ姿

「で、25歳のときに帰国したわけですが、『帰国したら○○の弟子にさせてやる』って話は完全に忘れ去られていて(笑)、有無をも言わさずに父の店の厨房に突っ込まれ、猛烈に忙しい日々がいきなり始まりました。完全に『騙された!』という感じでしたね(笑)」

猛烈に忙しい厨房の日々のなか、自分がかつて車好きだったことすら忘れていた晶行さんだったが、破天荒系の父はポルシェ 911やベントレー等々の車を買いあさり、のちに晶行さんが受け継ぐことになるホンダ S600とシトロエン SMも購入した。

そして、20代後半で一度は退治したがんが再発。十二指腸がんはステージ4まで進行した。

故障続きだったシトロエン SMは修理工場に入っている期間が長く、父はあまり乗ることができなかった。「SMに乗りてえなぁ。でもイグニッションコイルが欠品してるから、乗れねえよなぁ」という意味の言葉を残し、亡くなった。欠品していたイグニッションコイルが日本に到着したのは、彼が亡くなった3日後のことだった。

「そこからは、もうホントに車どころじゃなくなって。我が家のビジネスの大黒柱だった父の不在をなんとかリカバーしないといけませんでしたし、2人いる息子のひとりが障害をもっていますので、そちらも何かと大変ということで……」

嵐のような数年間が過ぎた。だが「永久にやまない嵐」というのも存在しないからだろうか。39歳になった頃、ふとひと息つける瞬間がやってきた。そして、思った。「もしかしたら……俺は今、“俺がやりたかったこと”をやってもいいタイミングなのかも?」と。

有無をも言わさずにイタリアに送られ、厨房に突っ込まれ、「自分が本来やりたかったこと」などほぼ忘れていたが、あらためて考えてみると――思い出せるのは「自動車雑誌の編集記者」になることだった。

  • トヨタ・GRヤリスの運転席

「よし。じゃ、履歴書送ってみるか」

39歳の未経験者が自動車メディアの編集部に履歴書を送るというのは、言ってみれば「野球を観るのは大好きだけど、プレーはしたことのない29歳男性が、NPB球団の入団テストを受けてみる」というのになんとなく近い。

だが冨山さんは、とある出版社に見事採用されることになった。妻は(当然ながら?)大反対したが、出版社でもらえる予定の給与額を聞くと「それはぜひ行くべきでしょう!」と手のひらを返した。激務のファミリービジネスは、実はきわめて薄給だったのだ。

そして母も「……晶行が人生で初めて、自分のことを自分で決めたんだね」と、喜んでくれた。

シェフを務めていた店は社員に引き継ぎ、冨山さんはまったく未経験の「自動車専門誌の編集」という世界に飛び込んだ。

そして――詳細は割愛するが、冨山さんはその会社で超絶といえるほどの大活躍を果たし、その反作用として、超絶といえるほどの病を負った。

最初はきわめて重度の自立神経失調症。その次が脳梗塞。いずれも死の一歩手前、いや「半歩手前」までいった。

「結局は脳梗塞からも生還はできたのですが、右手が動かなくなってしまいました。退院する際、お医者さんからは『とりあえず軽いリハビリをしながら、今後は家で寝てなさい』と言われましたが、『そんな、寝てるだけなんて冗談じゃねえぞ!』ということで、気合のリハビリに励んだんですよ」

すべては「もう一度、シトロエン SMのシフトチェンジを俺の右手でやってやるぞ!」との思いからだった。自動車系の出版社はすでに退職していたが、もう一度、絶対に車の運転ができるようになる――と決意した。

“気合のリハビリ”により、冨山さんの右手は医師も驚くほどに回復した。そしてまた週6日で料理店のシェフを務めるようになると――再び脳梗塞で倒れた。

  • 厨房で働くトヨタ・GRヤリスオーナーの冨山晶行シェフ

「で、そこからも再び生還したわけですが、そのときに思ったんですよ。『今度こそ本当に、仕事はまぁほどほどぐらいで良しとして、“自分が本当にやりたかったこと”をやろう』って」

自分が本当にやりたかったこと――それは「父と一緒にラリー競技に出場すること」だったと、思い出した。そしていつの日か、今度は自分が自分の息子をコ・ドライバーにして、父子でラリーに出場する。それが、冨山さんの“やりたいこと”だった。

「僕が大学生だった頃、父が突然スバル インプレッサWRXを買ってきて、それに乗って、2人でダートラ(ダートトライアル競技)のコースによく行ってたんですよ。その頃、父はもう当然ながら全日本ラリー選手権のほうは引退してましたが、とにかく上手かったですよ。ほんと、凄かった。で……『そのうち父子でラリーに出たいね』なんて話をしていたことも――思い出したんですよね」

そんな思いを胸に、なんとなしに2020年1月に開催された「東京オートサロン2020」に行ってみると、トヨタのブースで「GRヤリス」なるニューマシンが世界初公開されていた。

「ほほう、これはなかなか……」などと冨山さんが見入っていると、当日の技術説明員を務めていたGRヤリスの開発エンジニアが声をかけてきた。「……もしもよろしければ私と一緒に寝そべって、この車の下回りをご覧になってみませんか?」と。

そこから先のエンジニア氏の説明はアツかったという。「ここですココ! ここを本当に強く作っているので、スポット溶接を加えないでも、そのままの状態でラリーに参戦できるんです!」と、エンジニア氏は熱弁をふるった。

  • トヨタ・GRヤリスのマッドガード

感銘を受け、納得もした冨山さんはその場で「GRヤリス RZ“ハイパフォーマンス・ファーストエディション”」を予約し、後日、その予約内容を競技向けベースモデルである「RC」に切り替えた。

「そして納車されたGRヤリス RCは……ひとことで言うと“ヤバい車”でした。とにかくすべてが凄い。実はウチの母も父に負けず劣らずの車好きで、学生時代はラリーで父のコドラをやってましたし、近年は993型のポルシェ911にも乗っていたんです。そんな彼女も『このブレーキの利き方とかステアリングまわりの剛性感はポルシェと同じ! なんなの? 最近のトヨタはこんな車を作るようになったの!?』と心底驚いていましたね」

  • トヨタ・GRヤリスの軽量化された車内

    最初からここまで本格的な仕様にするつもりはいっさいなかったが、話せば長くなる諸般のなりゆきで、なぜかこうなってしまった。施工を担当したのは「ARAI Motorsport」。構造等変更検査済み。

まず今年はゆっくり、地道にジムカーナの練習を繰り返して「感覚を取り戻す」ことに専念し、来年からはTOYOTA GAZOO Racingが主催している「ラリーチャレンジ」に参戦。そしてゆくゆくは「地区戦」にも挑戦し、さらには「亀の歩みかもしれませんが、行けるところまで行けたら……と思っています」というのが、冨山さんのさしあたっての計画だ。

「仕事はほどほどで良しとする」とはしたものの、オーナーシェフを務めるお店は週5日開けている。そのうえで、本気のラリー競技において――しかも40代の人間が――「行けるところまで行ってみるつもりだ」というのは、ハッキリ言って尋常なことではない。そのパワーというか“意思”の源は、果たして何なのだろうか?

「病院のベッドで『もしかしたら俺、このまま死ぬのかもしれないなぁ』なんて思っていたときに、わかったんですよ。自分は、自分の人生に完全には納得できてないって。やってきた仕事は楽しかったですし、家族も愛しています。でも『俺は本当の本当に納得できてるか? 仮にこのまま死んだとしても満足なのか?』と問うてみると……やっぱり違うんですよね。せっかく生まれてきたからには、『やるだけのことはやりきった』と思って死にたい。その一念……なんでしょうかね」

生前の父から言われていたことも思い出したという。「いいか? 俺が○○(前述の有名ラリードライバー)に今でも電話1本で何でも頼めるのは、あのとき本当に命を賭けて走ってたからなんだよ。何をやるにしてもだな、生活を棒に振るぐらいの覚悟でやんねえと“真の友だち”なんてものはできねえぞ? 適当なことをやるつもりなら、いっそやめちまいな」

思い当たる節はあった。冨山さんが今でもイタリア修行時代の師匠と密な関係を保っていて、「トミー、何かあったらいつでもイタリアに戻っておいでヨ」と言ってもらえるのは、あの3年間、本当の本気で修行をしたからだ。もしも腰掛けのつもりで適当な修行をしていたならば、師匠は自分の名前すら忘れているだろう。

「亀の歩みかもしれないし、結果としてダメかもしれないが、とにかく本気でやる」

そう決めた冨山さんは、豊洲市場へ食材の仕入れに行く際にもなるべくGRヤリス RCを使うようにして、その挙動などを身体に染み込ませようとしている。

  • トヨタ・GRヤリスのリヤビュー

そんな冨山さんの姿を怪訝な顔で見つめていた14歳になる長男氏も、ここ最近はモータースポーツというものに興味を持ち始めてきた模様であるという。

「父とラリーに出る」という夢はかなわなかった。だが「息子と出る」というようにペアリングを変え、冨山さんの夢はかなうのかもしれない。いや、やはりかなわないのかもしれない。そこは、誰にもわからない。

だがもしも天国というものがあるのだとしたら、父上は「おう、本気で楽しんでるみてえじゃねえか。それでいいんだよ。それが、いいんだよ」と、持ち前の江戸弁でもって言っているのではないか――と、筆者は勝手に推測している。

  • トヨタ・GRヤリスオーナーと冨山晶行シェフ

(文=伊達軍曹/撮影=阿部昌也/編集=vehiclenaviMAGAZINE編集部)

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